今回お話するのは
警察の不祥事?本当に冤罪?
狭山事件
です。
警察って手柄を立てるために自白強要をしてきますよね・・・。
狭山事件とは?

狭山事件は1963年に発生した事件。
埼玉県狭山市の農家の一人の少女が誘拐殺害された。
さらに、その少女の関係者や事件を追っていたジャーナリストも次々と死亡した闇の深い事件。
警察の不手際で犯人を逮捕できず、別件で逮捕されていた男性を容疑者に。
自白を強要し、容疑者もそれを認めてしまい、無期懲役になってしまった事件。
あらゆる証拠も警察が無理やり作ったようなもので、本当の犯人は不明のまま。
- 事件当時の死亡者: 1名
- 事件後の死亡者: 6名
- 容疑者: 無罪主張
事件の容疑者?: 石川一雄

この事件には何人か関係者がいますが、その中の事件の容疑者?「石川一雄」。
この男性に少し焦点を当てていきましょう。
- 石川一雄の来歴
- 遺体発見時の言動
石川一雄の来歴

石川一雄は被差別部落出身の方。
前科はないが、13歳の時に列車の転覆事件の容疑者として連行され、取り調べを受けたことがある。
それ以外にも、人を殴り、詐欺、盗みを働いたりと地区内でも「嫌われ者」だったそうです。
このことからも、性格は
- 短気
- 粗暴
であることが分かり、同僚の目の前でパンを焼く窯に猫を生きたまま放り込んだこともあるとか・・・・。
遺体発見時の言動

また、死体発見時の5月4日。
石川は不安や恐怖で覆いつくされていた現場に駆け付け、その光景を見て一言
「こんなに人が集まるなら、アイスクリームでも売ったら儲かるだろうな。」
と笑っていたと。
犯人でないにしても、まともな言動ではないとは思います。
狭山事件: 事件の流れ

この事件の流れを見ていきましょう。
- 事件発生と脅迫状
- 警察への通報と逮捕準備
- 犯人の逃亡と取り逃がし
- 遺体発見
事件発生と脅迫状

1963年5月1日、川越高校の1年生中田善枝さんが、15時30分ごろに学校を自転車に乗って下校。
ガード下で誰かと話をしていたのを最後に行方知れず。
その日は彼女の誕生日ということもあり、心配しながらも夕飯を食べていた中田一家。
19時40分ごろ、玄関のガラス戸に白い封筒が挟んであったのを長男が発見。
その封筒にはこう書いてあった。
宛名 | 中田江さく(善枝さんの父親) |
内容 | 少時様 このかみにツツんでこい 子供の命がほ知かたら4月29日(五月2日)の夜12時に、金二十万円女の人がもツて前(さのヤ)の門のところにいろ。 友だちが車出いくからその人にわたせ。 時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。― 刑札には名知たら小供は死。 もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かッたら子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いッてみろ。 もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにかえッて気たら子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。 くりか江す 刑札にはなすな。 気んじょの人にもはなすな 子供 死出死まう。 もし金をとりにいッて。ちがう人がいたら そのままかえてきて。こどもわころしてヤる。 |
警察への通報と逮捕準備

紙には「警察に伝えるな」と書いてあったが、脅迫状を見つけて15分で警察に伝えるという落ち着きいた素早い行動だったと疑問視されている。
そして、庭の物置には自転車がおいてあり、脅迫状と一緒に善枝さんの自転車も返されていた。
通報を受けた警察は「5月2日の夜12時に佐野屋酒店で友達が金を受け取りに行く」というところに目を付け、「偽物の金20万円」を用意して現場で逮捕する計画を立てた。
そして、約束の時間に次女の登美恵さんが引き渡し役を買って出て、酒屋付近では警察が40人体制で身を潜めることとなった。
犯人の逃亡と取り逃がし

約束の時間に暗闇から男が「おい、来てんのか!」と酒屋から30mほど離れたところで声をかけてきた。
当然、「はい、来てます!」と伝えたが、男は「警察に話したんべ!そこに2人いるじゃねえか!」と疑い始めた。
登美恵さんは「1人で来てますからこっちに来てくださいよ!」と反論。
このようなやり取りをしていた時、警察に気が付いたのか犯人は猛ダッシュで逃走。
警察も逃がさまいと追いかけたが、
- 犯人の近くにいた警官は偶々年配の方が多かったこと
- 犯人の足が速かったこと
ということから、取り逃がしてしまったのである。
翌日に警察犬を使って足跡を追跡したが、中田養豚場付近の川で見失ってしまった。
遺体発見

そして5月4日10時30分ごろに善枝さんの遺体が発見。
雑木林に通じる農道の1m近くの穴に埋められていて、埋葬に使われたスコップは前述の中田養豚場から盗まれたもの。
善枝さんは
- うつぶせ
- 両手を手ぬぐいで後ろ手に縛られていた
- 目には手ぬぐいで目隠しをされていた
- 下着は膝まで降ろされていて強姦の跡があった
という状況であり、体に付着していた精液はB型の人間の血液であることが判明していたという。
狭山事件: 事件後の捜査・取り調べ

40人もの警察を動員しながら犯人を取り逃がした警察。(当然後々世間から非難されまくる)
何としても犯人を逮捕しないといけないが、捜査は難航。
そこで、石川一雄(事件当時24歳)を別件で逮捕し、取り調べを行っていきました。
なぜ石川一雄が逮捕されたのか?

なぜ彼が逮捕されたのか?
それは彼とその家族が住んでいた「被差別部落」が現場近くであったからです。
もちろん、これだけではないです。
遺体を埋める際に利用されたスコップが事件現場近くの「石田養豚場」。
ここから盗まれたものであり、石川一雄がここで1962年10月~1963年2月まで住み込みで働いていたこと。
被害者の膣に残されていたB型の血液の精液。
この養豚場の従業員27人中21人を調べたところ、彼だけが唯一のB型であったこともあります。
容疑者の逮捕と家宅捜査

石川容疑者は事件から3週間後の5月23日に喧嘩と窃盗の罪で逮捕。
そして、逮捕された日に12人の警察が訪れて大々的な家宅捜査。
部屋の中、天井裏、屋根の上、挙句の果てには庭の土をひっくり返さんほどの徹底ぶり。
それだけしても、事件の手掛かりは何一つ得ることはなく終わった。
逮捕された石川氏も、喧嘩と窃盗の罪で逮捕されたにも関わらず、善枝さんの事件を追及され続けた。
2回目の逮捕と自白強要

拘留期間が終了し、釈放された彼は今度は殺人容疑で2度目の逮捕。
再び拘留されることになった。
そして、連日取り調べを受け続けたことで精神的にも疲れ果て、警察の
「自供すれば10年で出してやる。」
という取引を受け、自供を始めるようになりました。
そして、彼がこの事件の犯人として扱われることになっていった。
次々と発覚した証拠
画像の引用元の記載漏れ、かつ画像の引用元のサイトが見つけられず。
見つかるまでの間、当画像は非公開とします。(不手際によりご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ございません。)
1:被害者との遭遇地点 2:鞄発見場所 3:石川一雄宅 4:腕時計発見場所
まず、警察は善枝さんのカバンを捨てたという場所の地図を描いた。
当然、そこからはカバンが発見された。
次に、「善枝さんの万年筆を盗んで自宅の勝手口の鴨居の上に隠した。」
と証言し、3回目の家宅捜査では鴨居の上に確かに万年筆が置いてあった。
さらに、善枝さんの腕時計を捨てたという証言場所でも、同じく腕時計が発見された。
このように、犯人にしか知りえない情報を話したことが決定的となり、ほぼ石川一雄が犯人であることは確定したようなものであった。
狭山事件: 矛盾する証拠

証言で出てきた証拠は実は矛盾したものが多いものでした。
後の調査では小さい相違点が出てきましたが、正しければ確かに不自然な点です。
当初 | 違う点 | |
地図 | 石川が描いた | 警察が2枚重ねて地図を描き、石川はその下の紙をただなぞっただけ。 |
鞄 | 革製の鞄 | 実際は革製の鞄に見える旅行鞄。善枝さんの鞄ではない |
万年筆 | 自宅に隠していた | 2回の家宅捜査では見つからないのに、自供後に万年筆があっさり見つかるのは不自然。 さらに、万年筆は新品同様のモノであり、善枝さんが使っていたインクとも違うことが判明 |
腕時計 | シチズン・ペット | 善枝さんの腕時計はシチズン・ニコー |
犯人の足跡 | 10文から10文半の大きさ | 家で押収された足袋の大きさは9文7分であった。 |
脅迫状 | 石川が書いた | 石川本人には学がないので字の知識はない。 筆跡鑑定でも別人である可能性がある。 そういった遺留品等からも指紋は検出されていない |
たしかに、一部後付けな言いがかりな部分もあると思います。
警察としては何としても犯人を捕らえたいので、証拠をでっち上げた可能性も十分にあります。
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