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【小平事件】シリアルキラー小平義雄が引き起こした連続強姦殺人事件とは?

小平事件とは? 日本

今回お話するのは

日本のシリアルキラー

小平事件

です。



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小平事件とは?

小平事件とは?

小平事件は通称「小平義雄事件」といい、1945~1946年に東京やその周辺地域で発生した連続強姦殺人事件。

太平洋戦争の末期~終戦直後の混乱期に、東京では食糧・職業の斡旋などは人々にとっては必要不可欠。

犯人はその需要を悪用し、若い女性を言葉巧みに騙して山林に誘い出し、強姦してから殺害。

逮捕された犯人「小平義雄」は30人以上の女性を強姦したと証言。

戦後の混乱期ということもあり、その信ぴょう性はさなかではなかったが、その猟奇性が話題となり日本を震撼させた事件です。

  1.  犠牲者: 8人(確定)
  2.  犯人: 小平義雄(死刑執行済)



事件の犯人: 小平義雄

事件の犯人: 小平義雄

小平事件を引き起こした犯人小平義雄。

1905年に栃木県栃木市において誕生し、吃音症を患っていた。(吃音症の友人の真似をしているうちに移ったとか。)

この男の生い立ちについてここでは話していきます。

  •  海軍兵士として
  •  一度目の結婚と殺人事件
  •  再婚と働き先

この順番で見ていきます。

海軍兵士として

小平事件: 海軍兵士として

15歳に上京し、食料品の店員や工場見習いなどを経験し、その後地元に戻り製鋼所で働いていた。

その後は海軍の兵士として横須賀海兵団に入団し、戦地に赴いた。



6年の軍隊生活で練習艦で

  •  オーストラリア
  •  ヨーロッパ
  •  旅順
  •  上海

などを巡り、その旅で娼婦と初体験を経験。

そして、赴いた先の中国において婦女暴行や妊婦殺害を行っていたという話がある。(こういった光景は彼だけではなく、世界各地で起こっていた。)

ただこの結果として、小平義雄は強姦殺人に目覚めていったといわれている。

また、自分の上官をカミソリで2回切りつけたりしたということもあったという。



一度目の結婚と殺人事件

小平事件: 最初の殺人

軍隊の除隊後勤務先の工場長の銘と結婚。(当時28歳)

しかし小平は18歳と21歳の娘と浮気をし、子供を産ませていた。

この浮気は結婚の4ヶ月後に妻の親が知り、離縁させようとした。

離婚の話を聞いた小平は妻の実家に押しかけ、

  •  義父を鉄棒で殺害
  •  6人の家族が重症

この事件をきっかけに15年の懲役が言い渡されたが、その後2度の恩赦により1940年に仮出所。



再婚と働き先

小平事件: 再婚と働き先

太平洋戦争がはじまり、ボイラーマンやサイパンの飛行場建設の仕事などで食いつなぎ、1944年に結婚。

知人の紹介で知り合った女性に、前科のことを隠して結婚し、1945年2月に長男が誕生。

同年3月に妻子を富山に疎開させた。

この時、小平義雄は「第一海衣糧廠(女子挺身隊の寮)」ボイラーマンとして働いていた。

助手からの評価は悪かったが、女性には優しく親切にしていたので

悪いことができない内気者

と評価されていた。



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小平義雄事件の流れ

小平義雄事件の流れ

最初の妻の父親の殺害も事件の被害者の一人に含まれますが、1945年の殺害からが小平義雄事件といわれています。

事件は戦後混乱期に発生しており、その期間は約1年に及びます。

  •  1945年: 5月25日
  •  〃 6月23日
  •  〃 7月12日
  •  〃 7月15日
  •  〃 9月28日
  •  〃 11月1日
  •  〃 12月29日
  •  1946年: 6月9日
  •  〃 6月18日
  •  〃 7月22日

これらの事件と逮捕までの経緯を見ていきましょう。



寮での殺害

小平事件: 寮での殺害

5月22日、23日に小平は以前から目を付けていた女性(当時21歳)Aさんと肉体関係を持ちたいと思っていた。

そして、25日にAさんが「故郷に帰る」ということで、小平は関係を迫った。

Aさんは拒否して逃げようとしたが、小平は両手で首を絞めた。

意識を失ったAさんの隣でタバコを吸い、意識が回復したAさんは関係を持った。

ただ、小平は発覚を恐れてAさんを絞殺。(苦しむ顔を見てかなり興奮していたという。)

その後、遺体は防空壕に隠された。


次々と起こした殺害事件

小平義雄事件

小平義雄は事件を次々と起こしていきました。

最初のAさんの殺害以降の被害を詳細にみていきましょう。

1945年
6月23日
栃木駅で当時31歳の人妻に対し
「この近くに知り合いの農家がいて、そこに行けばいくらでも米を買える」
とだまし、山中に連れ込んだ。
不審に思った女性に対し無理矢理迫り、拒否されても強姦。
3度の行為の末、絞殺し、70円と腕時計を奪い逃走。

7月12日
食糧の買い出しにで渋谷駅で切符を購入しようとした22歳の女性に対し
「米を安く売ってくれる農家を知ってる」
と騙し、栃木県の山中に連れこみ強姦。
女性が護身の為か小刀で対抗しようとしたが、小平は奪い、さらに馬乗りになって絞殺。
40円が入った財布と腕時計を奪って逃走。

7月15日
イモの買い出しの為に池袋駅に並んでいた21歳の女性に対し
「初めてのイモの買い物はうまくいかないかもしれません。直ぐに売ってくれる農家が私の知り合いにいますので、連れて行ってあげます。」
と騙し、奥多摩の清瀬村に連れ込み、強姦・絞殺をした。
60円と下駄1足を奪って逃走。

9月28日
食糧の買い出しの為に待っていた女性に対し
「清瀬村に懇意にしている農家がいて、そこでイモをいくらでも買えるので一緒に行きましょう」
と騙し、同じく清瀬村の雑木林に連れ込んで強姦・絞殺。
現金300円と洋服を奪って逃走。

11月1日
イモの買い出しの為に渋谷駅で並んでいた17歳の女性に対し
「暖かい場所に来なさい」
と騙し、東横デパートの地下室に連れ込み、強姦・絞殺。
約20円を奪って逃走。

12月29日
雷門駅で電車に乗り合わせていた21歳の女性を栃木県の山中に連れ込んで強姦・絞殺。
現金130円とリュックを奪って逃走。
1946年
6月9日
小平が時々パンやソーセージを与えていた顔見知りの15歳の少女に対し
「ビスケットをあげる」
と騙し、運送会社の廃品自動車置き場に連れ込み、お菓子をあげて関係を迫った。
少女に断られると、強姦・絞殺。
遺体はトラックの下に隠されたが、6月13日にトラックが燃えて、遺体が発見されている。

7月22日
知り合った女性に「銀座で遊ぼう」と騙して増上寺境内の雑木林で暴行・絞殺。
この女性の遺体は1ヶ月後に発見されたが、身元は不明のままとなった。

8月6日
6月に品川駅で友人と待ち合わせていた女性に対しパンを渡し、「就職の世話をする」と騙していた17歳の女性を公園裏に連れ込んだ。
そこでお弁当を食べている時に見えた胸に欲情し、強姦・絞殺。



小平義雄の逮捕

小平義雄の逮捕

8月17日に最後に殺された女性の遺体が発見され、彼女の家族が「自分の娘では」と名乗りでてきた。

実は8月6日に殺害された女性に対し小平は本名を名乗っており、女性は小平のことを家族に話しており、母親も会っていた。

小平は「就職試験を受けさせてやる」といっていたが、母親は用心するように女性に言っていた。

そして、事件当日を最後に女性は帰ってこず、不審に思った母親は小平に会いに行ったが、小平は「彼女は試験の日に来なかった」と嘘をついていた。

このことを受けて警察は小平の自宅に向かったところ、あっさり逮捕された。

8月19日に愛宕署に連行され、小平は女性を殺害したことや、その他10件の暴行・殺人を自供し、逮捕された。


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事件の被害者と犯行動機

小平義雄の犯行動機と被害者

当時食糧難であったこともあり、被害者は「か弱い女性」かつ「食料・職を求めていた困窮者」であった。

そんな卑劣な事件を引き起こした小平の犯行動機。

私が女たちを殺害した理由は、女の死に顔を見て喜ぶとか、死の苦しみを見て喜ぶといったことではないのです。第一には、女は殺さねばいうことをきかない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うのです。第二には、女を絞めて弱らせると手足を伸ばしてしまいますが、そのとき両方の足を広げて下を見て、それから関係するのがいいのです。第三には、女が死んでから下を見ようという好奇心があったのです。陰部を見る楽しみはこんどの犯行以来です。M子以来です。普通のやり方より強姦のほうがいいです。自由になりますから。女を横にして下を見ながら関係しようとする瞬間が、なんともいえないのです。殺されてもいいと思う時があります。日本刀でうしろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです。100%以上です。死体でも同じことです



死刑判決と死刑

小平義雄の死刑判決と死刑

裁判が始まったが

  •  1945年 11月1日
  •  1946年 6月9日
  •  1946年 7月22日

の3つの事件については証拠不十分で無罪となってしまった。

戦後の混乱期でもあり、当時迷宮入りした事件を小平の罪に押し付けようとしたという憶測もあった。

また、小平の証言によれば

  •  10人殺害
  •  30人以上強姦

とされているが、その真偽は不明となっている。


ただ、

  •  1947年6月18日の第一審で死刑判決
  •  1948年2月27日の東京高裁で死刑判決
  •  最高裁: 上告棄却

とされ、死刑が確定した。

そして、1948年10月5日に死刑が執行され、44歳で小平はその生涯に幕を閉じた。



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小平義雄が遺した言葉

小平義雄が遺した言葉

死刑執行の半年前に小平の妻が面会に訪れ、妻に対し

自分が疎開していたばかりに、あなたの世話ができず、このような結果を招いた。あなたの罪の責任は私にあります

また、妻への遺言状として

自分は荘厳な気持ですべてを清算し、静かな気持で死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うして下さい

を残し、さらに辞世の句

亡きみ霊 赦し給へし過去の罪 今日の死を待ち 深く果てなん

も残している。



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まとめ: 小平事件

まとめ: 小平事件

今回は日本のシリアルキラーとされている小平事件、通称小平義雄事件について紹介させていただきました。

この事件のすぐ後に同じような手口の事件が起きており、戦後の混乱期に社会的に弱い立場の人間を狙った悪質な事件が多かったということが伺えます。

という訳で今回のまとめ。

  1.  小平事件は1945~1946年に発生した事件
  2.  小平義雄が戦後の混乱期に起こした戦後殺人事件
  3.  8人以上の女性を騙し、強姦・殺害
  4.  30人以上の被害者がいるという説がある
  5.  犯行動機は「女性の死に顔を見ると喜べるから」
  6.  1949年10月5日に死刑が執行された(享年44歳)
  7.  日本のシリアルキラーの一人とされている。

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