今回お話するのは
未成年銃撃事件
少年ライフル魔事件
です。
日本でもかなり古い少年による銃撃事件となります。
少年ライフル魔事件とは?
少年ライフル魔事件は1965年7月29日に、神奈川県で当時18歳の少年が起こした銃撃事件。
警官隊と少年の間に激しい銃撃戦が発生し、1人の犠牲者を出してしまった。
そして、「犯行当時未成年」の犯人が最終的に死刑判決となった、戦後の未成年犯罪の中では珍しい事件でもある。
- 犠牲者: 1名
- 犯人: 死刑判決(執行済)
事件の犯人: 片桐操
犯人の名前は「片桐操」。(以降「K」)
1947年に4人兄弟の末っ子として生まれた。
- 成績は必ずしも良いわけではなかった
- 体格はよく
- 腕相撲もクラスでは1番2番
- 酒や煙草も体に悪いと手を付けていなかった
という、体育会系な傾向であった。
また、彼は銃の扱いに対しては病的なまでのこだわりがあり、他人には一切触れさせないような人であった。
根っからの銃器好き
小さいころから銃器や兵器など、軍事系の雑誌などを愛読。
中学3年生の時に、4500円という当時では高価な銃のおもちゃを買ってもらうなど、銃好きであった。
彼の父親は、本物の銃を購入したいという片桐に対し、
人を撃つぐらいなら自分を撃って死ね
と言い聞かせてはいた。
だが、中学を卒業後に本物の銃を購入してもらい、その後自衛隊に志願。
理由は「もっと銃を撃つことが出来る」ことから。
だが、入隊の試験には落ちてしまったので、働いて新しく「水平2連式散弾銃」を購入することとなった。
少年ライフル魔事件の始まり
片桐操(以下K)は当初は射撃場で射撃を行う一方で、銃禁止区域内において雀を空気銃で撃つなどの行為を行っていた。
当然通報をされ、警察官の田所康雄巡査(当時21歳)が急行し、Kは詰問された。
このことに腹を立てたKは、田所巡査に発砲。
胸を貫かれて倒れた巡査の頭を銃床で何度も殴り殺害した。
しかし、彼の証言では警察の詰問に腹を立てたと言っているが、一方で
「警察のみが持てる拳銃が撃ちたい」
と故意に警察に通報したともいわれているが、今となっては詳しいことは不明。
だが、この出来事がきっかけで、彼の暴走が始まることとなった。
応援に駆け付けた警察への銃撃
田所巡査殺害後服を盗み、警察官に扮して逃亡しようとしていた時、応援で駆けつけてきた2人の警察官に対し、Kは発砲。
- 1人: 腹部に弾が命中して重傷
- 2人: 奇跡的に留め具の金属に弾が命中し、無傷
この出来事はKにとっては想定外であったため、外国人を人質にとって逃げる計画を変更。
警察になりすまし逃亡
(逃走ルート)
Kは2人の警官に発砲後、あらかじめ盗んでいた田所巡査の警察の服、手帳で警察官に成りすました。
その後、近くのお菓子店の向かいに住んでいたAさんと共に捜査に協力してもらう形で車に乗っていた。
ただ、午後12時5分ごろに、道の途中で止まった交番にいた巡査がKの乗っている車に気が付いたため、KはAさんをその場で人質に。
Aさんはその後すぐに解放されたが、Kは交番の近くで駐車をしていたBさんを人質に取って逃亡。
Bさんを人質に取り、車を強奪したりして逃走をしていたK。
午後2時頃に、東京都小金井市の公園で停車し、休憩をしていたカップルを新たに人質にとり逃走。
Bさんを含め、3人の人質を取って逃走をしていた。
逃走と銃砲店へ
警視庁と神奈川警察は
- 白バイ: 198台
- ヘリ: 2機
- 機動隊員: 700人
- パトカー: 225台
- 警官: 2200人
という、大規模な人数でKを追いかけていた。
だが、そのことを車のラジオで聞いていたKは冷静に逃走経路を探し、逃げていた。
午後3時30分頃に、渋谷区の病院前で具合の悪くなった女性だけを下ろし、男性2人を人質に渋谷をぐるぐる回って逃走。
そして、午後6時ごろに渋谷駅前の銃砲店にKは押し入った。
(人質となっていた男性2人はKが店に入った後、急いで車から脱出して近くの消防署に逃げ込み、難を逃れた)
銃撃戦の始まり
Kは以下の計画を立てていた
警官の銃の弾を補充し、他のライフルも強奪。そのまま東北に逃走をする
このライフル店には何回か通っており、警官の銃弾がサンプルとして1発置いてあることを知っていた故の計画であったという。
また、銃がある限り必ず逃げ切ることが出来るという絶対の自信もあったという。
店内には
- 男性店員(65歳)
- 男性店員(16歳)
- 女性店員(21歳)
- 女性店員(16歳)
の4人がいて、Kはその4人を全員人質にとり、警察との銃撃戦を開始したのであった。
警官との銃撃戦の開始
消防署からの通報ですぐに駆け付けたパトカー2台に対し、Kは窓ガラス越しにライフルを3発発砲。
人質の店員に数丁のライフルに弾を込めさせ、店の中、人質を盾にして店の外に出て弾のある限り撃ち続けた。
店の外には
- パトカー: 50台
- 装甲車: 10台以上
- 機動隊員: 580人
が包囲していたが、Kは至って冷静に冷蔵庫のビールをラッパ飲みしたり、
ヘリコプターをどけないと人質を殺す
など、脅したりし、1時間で130発以上撃ち続けた。
拡大する被害
この銃撃で5人の警官が全治2か月の重傷を負った。
また、現場には5000人もの野次馬や報道陣が好奇心で押し寄せていた。
警官は身を隠したりして、さながら市街地は小さな戦場と化していたが、野次馬は呑気な様子。
そのせいか警察も制御できず、被害が拡大。
15人の人間が撃たれ、全治2か月の重傷を負うなど、被害は拡大していった。
銃撃戦の終わり
警察の催涙弾によって、Kはパトカーを奪って逃走をしようとした。
大量の弾と人質を連れて店の外に出た瞬間、隙を見た16歳の男性店員がライフルでKを殴り脱出。
逆上したKはライフルを後ろから撃ち、弾が切れたので女性店員に弾を込めさせようとした。
その隙を見て、当時32歳の刑事が体当たりをしようとしたが失敗。
Kはポケットに持っていた拳銃を2発、刑事に向かって発砲
- 1発目: 額を掠る
- 2発目: 背中を貫通して1ヶ月後の重傷
となったが、ついに弾はなくなってしまった。
Kは慌ててその場を逃走しようとしたが、10人以上の警官に飛び掛かられ、逮捕されたのであった。
- 死者: 1名
- 重軽傷者: 数十名
近くを出し、立てこもり銃撃事件は一旦の幕を閉じたのであった。
裁判と死刑判決
Kは逮捕後の取り調べに対し、
色んな銃を撃ちまくることができて、たまっていたものを全部吐き出せスカッとした気分だ。どうせ刑務所に入るんだろうから、代わりにベトナムに行きたい。ベトナム戦争で好きなガンを思いっきり撃つことができるのなら死んでもいい
などと供述。
そして、事件の2年後の裁判で以下のような判決が下された。
- 第一審: 無期懲役
- 第二審: 死刑判決
- 第三審: 死刑判決
一審と二審でKは
銃への魅力は今尚つきない。将来、社会へ出て、再びこのように多くの人に迷惑をかけることのないような刑、死刑にして欲しい
と死刑を自ら望んでいたという。
間違ってもいけないのは、2審の死刑判決は「矯正の余地なし」と判断されたのであって、本人の望みを聞き入れたわけではないという事である。
死刑執行と片桐操の遺言
事件当時未成年であった犯人が死刑判決を下されたのは珍しいことであった。
そして、1972年7月22日に死刑が執行され、25歳で片桐操はこの世を去った。
また、この時彼は教誨師に対して以下の遺言を残している。
僕は親不孝の許しを乞い、被害者の方の冥福を祈りながら静かに死んでいきます。でも、ぼくのような人間が2人と出ないよう、この社会から2度と出ないようにこの最後のつらさ、苦しさの心境だけは若者たちに伝えてください。自分との闘いに負けた人間の最後のあわれな姿が、自分をして、自分で自分の首を絞めるようなもので、こんな人間にだけはなるなと教えてやってください。先生、死刑囚んあった人間の教誨より、罪を犯さない人間を育てるために教誨をして下さい。これが、僕の最後の頼みです
まとめ: 少年ライフル魔事件とは
今回は昔に発生した未成年犯罪について紹介させていただきました。
事件が発生したら、絶対に野次馬感覚で見に行かないようにしましょう。
今現代だと、SNSに挙げるつもりで映像を取りに行くと思いますが、まずは自分の命最優先でその場から逃げましょう。
という訳で今回のまとめ
- 少年ライフル魔事件は1965年7月29日に発生した事件
- 犯人は当時18歳の銃好きの少年「片桐操」
- 警官1人を射殺し、人質を取って逃亡
- 渋谷の銃砲店で立てこもり
- 十数人以上の重軽傷者を出した
- 当時未成年の少年に対して異例の死刑判決(執行済)
⇒⇒次によく読まれる記事