こんにちは。タクヤンです。
今回お話するのは
山形マット死事件
です。
容疑者側が全員15歳未満という事件でもあり、調べれば調べるほど胸糞かつ疑問点も感じる事件でもあります。
山形マット死事件の概要
この”山形マット死事件”は別名「マット死事件」、「明倫中事件」、「マット事件」とも呼ばれている事件で、1993年1月13日に山形県新庄市立明倫中学校で発生した事件。
加害者とされる容疑者は7人もおり、学校という教育現場でのいじめ問題の深刻さを考えられるようになった事件でもあります。
そしてそれと同時に調べていくうちに田舎という独自のコミュニティを形成される中で起きる庇いあいの異常さも感じられる事件でもあります。
山形マット死事件の被害者とその事件背景
被害者は児玉有平君(当時13歳)。
お父さんはこの新庄市で幼稚園を経営しており、彼と家族は裕福な家庭でもあったといいます。
そして彼の家族は1976年にこの街に引っ越しており、「標準語」を喋って「裕福」な一家。
つまりここの人達からしたら「余所者」であり、少なくとも嫉妬の対象ともなっていた。
そして、有平君のお兄さんは部活動でいじめられた経験もあり、そのことで卓球部に所属していた有平君のことも同じように心配した。
しかし彼は「いじめられてもギャグで切り抜けている」といじめられていることを示唆していた。
実際彼は小学校高学年の時からいじめられていたことが分かっている。
[スポンサーリンク]いじめの疑いと山形マット死事件の発生
事件発生の前年の1992年9月に集団宿泊研修の際に有平君は顔を腫らして帰宅したことで家族は「いじめられているのでは?」と思い、学校側に聞いたところ学校側の答えは「いじめはなかった」とのこと。
だが、1993年1月13日に有平君が夕方になっても帰ってこないことを親が心配して卓球部の顧問に尋ねたところ、「部活には私は行ってないが、学校側に確認してみる」と返事が来た。
しかし同日の夜8時ごろに学校側から「見つかりました!!”逆さ吊り”になってます!!」と連絡が入って父親が確認をしに行ったところ、無残な姿の有平君が見つかった。
有平君は「誰か判別出来ないほど顔を殴られており、鼻筋や唇でかろうじて面影が分かる」程の悲惨な状況であった。
そして、現場は「体育館の真っ暗な体育倉庫」で「マットで巻かれた状態」で吊るされているという普通に考えれば「事故」ではなく「殺人」としか考えられない状況であった。
[スポンサーリンク]山形マット死事件における容疑者(いじめの首謀者)とその手口
その翌日には報道陣がきたが、校長は「いじめや暴行など、教員が介入しないといけないことは本校に全くなかった」と述べていた。
そして有平君の葬儀が行われている頃、Aという当時14歳の少年が事件の一部始終を告白してます。
その内容は6人の仲間と共に有平君に暴行を加えてマット内に押し込めたというもの。
その内容をもとに6人(B~G)の少年が逮捕されていきました。
Aの供述では有平君は「騒がない・抵抗しない・黙って言いなりになる」というおとなしい子というところから目を付け、家族がお金持ちということに対する妬みも相まっていじめの標的にした。
殴る蹴るなどは当たり前のように行われていたが、段々といじめはエスカレートしていき事件当日はさらに酷い様子であった。
Aはマットに顔を突っ込んで遊んでいたが、窮屈で呼吸が難しかったという恐怖を有平君にも味合わせてやろうと考え、用具室で周りの生徒から見えないように7人で暴力をふるっていた。
中にはプロレス技による暴行を浴びせる生徒もいた。
そして暴れる有平君をマットに押し込み、マットで動けなくなった有平君の顔にさらに暴行を加え、助けを求める声も無視して逆さ吊りにされて放置していった。
Aは恋人とデートに行き、2人は倉庫の前でバスケで遊ぶという常軌を逸した行動にでた。
もちろん、Aは有平君を放置する危険性は知っていても「誰かが引き上げるだろう」と助ける素振りは見せなかった。
次々と翻る証言と警察による捜査不足
当初Aは有平君が亡くなったと知るとすぐに仲間たちと口裏を合わせて罪を逃れようとしていたが、Aがバイクを盗難した時にお世話になった婦警さんに対しては本当のことを自供し始め他6人全員の名前が挙がって逮捕された。
だが、ここで容疑者側の家族が
- 東京の弁護士を付けたからもう大丈夫
- 大手を振って歩けるようにして見せる
- 孫を絶対に無罪にして見せる
など自分の子供を守るために動き、同時に「子どもの権利委員会」に所属する人権派弁護士や「無実の元少年たちを支援する会」も組織されていった。
こうした中、進んで有平君に暴行を加えていたEが真っ先に供述を翻し、「有平君は知らないし会ったこともない」と容疑を一転させた。
それに呼応するかのように他の少年たちも全員容疑を否定し、弁護団は「有平君はひとりで遊んで勝手にマットに入って死んだ」と事故説まで立てる始末。
さらに、体育館で現場を目撃していたはずの生徒も次々と「あの証言は嘘」と言い始め、体育館の中にいた50人近い生徒のほとんどが「知らない、見てない」など供述を始めた。
結局、1人が認めそれ以外の6人は容疑を否認した。
ここで分かると思いますが、この山形マット死事件は「自白」以外の物証がほとんどない事件。
物的証拠を集めないといけないが、警察の初動捜査やその他の捜査が不十分と批判されています。
[スポンサーリンク]被害者に降りかかる村八分的扱い
そして、この事件の悲しい所は被害者の家族が事件後も村八分的な扱いを受けていたことである。
家の壁には「殺してやる」などの落書きをされ、
- 「殺されるような育て方をしているから当然」
- 「喧嘩両成敗。いじめられるにも理由がある」
- 「飼っていた虫を死なせたようなもの」
など被害者遺族に対する言葉とは思えない暴言を浴びせられることになった。
しかしその矛先は兄弟にも向けられ、お兄さんは「弟が殺されてよく外を歩けるな」などと心にない暴言を浴びせられ、妹は「お兄ちゃんが殺されてうれしいか?」などどあまりにも惨い暴言を浴びせられた。
山形マット死事件の裁判とその判決
裁判は以下の流れになった。
1993年
8月23日 |
山形家庭裁判所は逮捕のA,B,Cの3人に対して「無罪」を言い渡す。 |
---|---|
1993年
9月14日 |
山形家庭裁判所は補導のD,E,Fの3人に対して非行事実を認め、2人が初等少年院送致、1人が保護施設送致。 |
1993年
9月16日 |
D,E,Fは処分結果に対しての取り消しを求めて仙台高等裁判所に抗告。 |
1993年
11月29日 |
高等裁判所は「アリバイを認められない」と訴えを退ける。 |
1994年 | 刑事裁判で7人全員が有罪判決となった。
同年6月に「事故死説」を主張し、処分の無効を求めて山形地裁に提訴。(後に取り下げられる) |
1995年 | 被害者遺族が加害者7人と新庄市に対して10億9400万円の損害賠償金を提訴。 |
2002年
3月19日 |
損害賠償金に関しては山形地裁・手島徹裁判長は事件性はないと判断し訴えは退けられ、無罪判決となった。 |
2004年
5月28日 |
仙台高等裁判所は1審判決を一部取り消し7人に対して「有罪」と判断。
7人に5760万円の支払いを命ずる。少年側は上告を申請。 |
2005年
9月6日 |
最高裁の上田豊三裁判長が少年たちの上告を退け、遺族側の逆転勝利となった。 |
そもそも彼らの弁護には大きい矛盾がある
上記でも記しているが彼らの弁護人は「有平君が勝手にマットに突っ込んで死んだ」と事故死ということにしていたが、それだけで7人の無罪を証明することは出来るはずがない。
そもそも、有平君は顔が判別できないほどの暴行を受けている。
そして、あるサイトでは「真っ暗闇の中で7人の少年が有平君をマットに突っ込ませるのは不可能」という検証をしている方もいた。
まとめるとこうなる。
- 有平君は顔が判別できないほどの暴力を振るわれていた
- つまりマットに入る前には何らかの暴力は振るわれていた
- 体育館の倉庫の真っ暗闇の中で7人の少年がマットの中に彼を押し込ませるのは不可能
- だが、有平君は真っ暗闇の中でも正確にマットに頭を突っ込むことが出来た
- その現場を近くにいた50人近くの生徒は誰一人として見ていないと証言
矛盾点が多すぎて挙げていくのも嫌になる。
そして山形マット死事件の容疑者たちの現在は?謝罪も賠償もない・・・・。
しかし裁判の判決が確定しても加害者側の弁護士はこう擁護した。
まだ彼らも若いから、判決を受けても罪の実感はわかないかもしれない。
でもこれから結婚して、自分たちの子供が生まれたら、子供を失った親の悲しみを理解してくれるようになるかもしれない。
彼らが反省して謝りに来るのを待とう
納得できるかと言われたら土台無理な話。
しかし裁判確定後10年が経過しようが加害者たちの誰一人も賠償金どころか謝罪するものは現れなかった。
それどころか中には「あの事件は無罪。自分たちは悪くない」と自分たちが被害者のように振舞う者まで現れる始末。
加害者たちは皆30代半ばで5人が結婚し、子供も生まれている人もいる。
「自分たちは反省したから謝らなくてもいいし、賠償金も払わなくてもいい」という事なのか?
憶測で物は言いたくないが、そのようにしか感じられない。
今は7人の内4人は賠償金の支払いのために差し押さえ手続きが行われているが、それ以外の3人はそもそもの所在が不明のため行えない。
裁判では遺族が勝利したとはいえ、事件の本当の解決には至っていないというのがこの事件である。
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