今回お話するのは
何故彼らは死んだのか?
ディアトロフ峠事件
です。
事件の発生国はソ連なんですが、あの国なら・・・・ありえそうで怖い。
刺激の強い画像があるので注意が必要です。
ディアトロフ峠事件とは
ディアトロフ峠事件は1959年に旧ソ連で発生した謎の事件。
9人(最初は10人で途中1人が離脱)のトレッキング(山歩き)チームが旧ソ連ウラル山脈北部で全員が不可解な死を遂げていたのです。
事故死のように思える状況だが、
- 内側から切り裂かれたテント
- 遺体は下着のみ
- 頭蓋骨や肋骨が損傷
- 一部遺体損壊
- 数人の衣服から高い線量の放射線物質
など、事故死の一言では説明できない遺体状況でした。
その為、様々な陰謀論や都市伝説が噂された未解決事件となっている。
- 死者: 9名
- 原因: 正確には不明(雪崩説が近い)
被害者たち
被害者の多くはウラル科学技術学校(今のウラル工科大学)の学生及び卒業生。
全員が「長距離スキー旅行」、「山岳遠征」の経験があり、今回の山歩きも特別なものではなかったという。
写真 | |
イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ (Игорь Алексеевич Дятлов) チームのリーダーで、1936年1月13日生まれ。 23歳没 | |
ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ (Зинаида Алексеевна Колмогорова) 1937年1月12日生まれ。 22歳没 | |
リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ (Людмила Александровна Дубинина) 1938年5月12日生まれ。 21歳没 | |
アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ (Александр Сергеевич Колеватов) 1934年11月16日生まれ。 25歳没 | |
ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン (Рустем Владимирович Слободин) 1936年1月11日生まれ。 23歳没 | |
ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ (Юрий (Георгий) Алексеевич Кривонищенко) 1935年2月7日生まれ。 24歳没 | |
ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ (Юрий Николаевич Дорошенко) 1938年1月29日生まれ。 21歳没 | |
ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ (Николай Владимирович Тибо-Бриньоль) 1935年7月5日生まれ。 24歳没 | |
セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ (Семен (Александр) Александрович Золотарёв) 1921年2月2日生まれ。 38歳没 | |
ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン (Юрий Ефимович Юдин) チーム唯一の生存者で、2013年4月27日没。 |
平均でも20代という若いチームですが、前述したとおり今回の計画は特に問題がなかったはずでした。
ディアトロフ峠事件の流れ
ここではこの事件の一連の流れについて紹介していきます。
- 出発と離脱
- 遭難と探索
- 遺体発見
この順番で見ていきます。
出発と離脱
1月25日に10人のメンバーはイヴデリという町に到着し、そこからヴィジャイ村に出発。
彼らの目的はヴィジャイ村からオトルテン山に向かって山歩きを行う事。
事件当時の天候状況から考えると踏破は難しいと考えられていたが、彼らはいけると判断。
1月27日に村を出発したが、28日にメンバーの一人「ユーリー・ユーディン」がリウマチの悪化から離脱。
ある意味彼はここで命が助かったともいえ、残った9人のメンバーはここから遭難したのであった。
この離脱からはグループと遭遇した人は誰一人もいないので、彼らが行方不明になるまでの経路は残された日記や写真から推測するしかないという。
遭難と探索
1月31日にグループは本格的な登山の為、食料や物資を分けたりするなど準備をしてオトルテン山麓から出発。
そこから、彼らは悪天候によって方向を見失い、西に道を逸れてしまったという。
そのせいで違う山を登っていたとのことだが、彼らはそのことに気が付いた。
しかし、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営したと考えられている。(曰く、「山の斜面でのキャンプ設営の経験も積みたかったのでは」と生存したユーリーが証言している。)
その後、2月12日までには帰ってくるという予想であったが、一向に電報が送られてこなかった。
だが、数日の遅れならば仕方ないこととされていたが、1週間経っても電報は送られてこなかった。
2月20日に心配した親御さんたちの要請で、ウラル科学技術学校がボランティアの学生や教師で編成した救助隊を送り、数日後に軍と警察が腰を上げて捜索に当たった。
遺体発見
捜索が始まってから6日後の2月26日。
ホラート・シャフイル山でテントが発見されたが、テントは損傷が酷かった。
テントは半分に引き裂かれていて、雪に覆われていた。
中には誰もおらず、荷物なども置き去りにされていた。
また、8~9ぐらいの靴下、片足だけ、裸足の足跡が近くの森に向かっている。
どう考えても死んでいるとしか思えない状況であった。
そして、その時5人の遺体を発見。
森外れの大きなヒマラヤスギの下
ユーリー・クリヴォニシェンコ
ユーリー・ニコラエヴィチ
ヒマラヤスギとキャンプの間
ディアトロフ
ジナイダ・コルモゴロワ
ルステム・スロボディン
クリヴォニシェンコは下着姿で靴を履いていなかった状態で発見されたという。
残る4人の捜索にはさらに2ヶ月かかったという。
ヒマラヤスギの気から森に75m入った先の渓谷の中、4mの深さの雪の下
服装は最初に亡くなったメンバーが分け与えたのかまとも
4人のうち3人は遺体の損壊が激しく、肋骨をひどく骨折していたり、舌がない状態でもあった。
とはいえ、9人の遺体は幸いなことに発見されたのであった。
だが、彼らの検死や現場検証を行っていけばいくほど謎が深まっていくばかりであった。
彼らは何が原因でこのような形で死んでしまったのか?
ディアトロフ事件の死因は?
こうして9人の若い人たちが死亡してしまったわけですが、その死因は何なのか?
遺体の状況や現場周辺の状況からいくつかの死因の原因が噂されました。
- 雪崩説
- ソ連の実験の被害
- 襲撃説
- ヘアピン渦説
それぞれ見ていきましょう。
1: 雪崩説
一応有名な説としては「キャンプしていたところで雪崩が起きて飲み込まれた」です。
雪山という事も考えればあり得ることではありますが、この時雪崩は起きなかったと言われています。
また、テントは発見時に雪が乗っかっていなかったという話もあります。
また、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多いとされていますが、このキャンプ地は傾斜15度。
つまり、雪崩が発生する可能性は低いと考えられていますし、何より放射線や遺体損壊の理由説明にはなりません。
2: ソ連の実験の被害
この事故現場近くではソ連がミサイルを撃つ実験を行っており、それと同時に秘密の核実験を行っていたという話があります。
その際に放射線物質が地面に降り注ぎ、その放射能の影響で彼らが死亡してしまったという説です。
当時、遺体の衣服からは被曝した跡が発見されたのですが、もし核実験によって被曝したのであればもっとエゲツナイ線量が検出されます。
(検出された線量は大気汚染でも検出される程度だった)
3: イエティや原住民の襲撃説
遺体の体の一部が損壊していたことや、一部雪崩で説明できない肋骨の骨折から、イエティや原住民に襲われたのではという説です。
確かにこの説ならテントの傷や遺体の一部の損壊の事実を説明することはできますが、流石にそれはないとのことで、あくまでも都市伝説的なお話。
イエティの写真もあるらしいが、それも隊員の一人を撮影したものとして片づけられる。
4: ヘアピン渦説
雪崩説と同じくかなり検討されたのがヘアピン渦説(風が丸い半球状の障害物にぶつかることで発生する特殊な渦)。
この渦は周囲の地形によっては風速が3倍になることもあるとか。
そして、彼らがテントを張った場所を2~3分に1回はこのヘアピン渦が発生していたらしいです。
この時の風速は実に45m。
さらに、この時の風が超低周波音を発生させ、頭痛や気だるさ、不安を引き起こしたという。
もしこれが正しければ、ヘアピン渦が引き起こした超低周波音と雪により、パニックに陥った全員がテントを切り裂いて薄着のまま「-30度」の極寒の外に飛び出した・・・・・。
十分にあり得ることであるが、その現地で風速15mの風が吹いていたのか。(15mは人が風に向かって歩きにくくなる速度)
少なくとも、イエティや核実験よりかは科学的に説明のつく現象ではある。
事件の不審な点
この事件の概要だけを聞けばただの自然災害による事故死と考えれます。
ですが、当時事件発生現場がソ連であることや、遺体の状況、調査時の調査隊の行動から不審な点が多いです。
- 脱衣した衣服
- 遺体損壊の理由
- 服から検出された放射線量
- 内側から切り裂かれたテント
- 本当に雪崩で死んだのか?
順番で見ていきましょう。
1: 脱衣された服
矛盾脱衣という言葉があります。
これは熱したフライパンを触れた時、「冷たっ!!」って言ってしまうことがありますが、それと似ています。
恒温動物の人間が寒い環境に長時間いる時、体温が奪われた人体が熱を発しようとする。
すると体内と体外の温度差が発生し、そのせいで暑い場所にいると勘違いして衣服を脱いでしまう。
こういった現象が今回の事件で発生したと考えられます。
なので、一行が薄着であったというのは不可解ではありますがしっかりとした原因があります。
2: 遺体損壊の理由
ただ、雪に飲まれて死亡したのであれば自然による事故死と判断は素人目でも何となくできます。
しかし、遺体が打ち付けられた跡や、一部が無くなっている跡が見つかれば話は別です。
仮に雪崩に体を打ち付けられて骨折であれば理解はできます。
しかし雪崩で舌や目まで消えることはあるのか・・・・・。
ここで言いたいことは、「何かに襲われた可能性はあるのか?」ということです。
一応検死の結果は出ています。
- 打撲: 落下した時に打ち付けられた
- 一部損壊: 雪などの水分で腐敗が進んだことが原因
3: 服から検出された放射線物質
亡くなった隊員の服から検出された放射線物質。
このことから以下のことが疑われました。
ソ連が近くで秘密の核実験を行い、その放射線を彼らは浴びたのだ
彼らの服や遺体の一部を回収したという証言もあったことが、さらに拍車をかけました。
しかし、隊員の2名は「核関連施設」で働いていたという話もあります。
私は核関連の話は詳しくはありませんが、考えればその施設での影響があったのではとも言えます。
4: 内側から切り裂かれたテント
何とも説明がつかないのがテントです。
内から切り裂かれたという事は、少なくとも「テントの内から脱出しなくてはいけなかった」ということがあったということです。
彼らが異常な行動を取ってしまったか、その行動を取らざるを得なかったです。
「雪崩が起きたから」という話を聞きますが、雪崩が起きてから直ぐにテントを切り裂く余裕なんてあったのか?
「何かに襲われた」という話も聞きますが、その場合は外から切り裂かれた跡になるはずです。
未だ疑問が残る点です。
5: 本当に雪崩で死んだのか?
一番の疑問がここです。
彼らが死んだとされた場所で雪崩が起きたと言われていますが、その付近で雪崩が起きた形跡はなかったと言います。
また、クルーたちはずぶの素人でなく経験者たちです。
雪崩が起きやすい場所にわざわざテントを設置するとも考えられません。
それに事故後も何組ものグループがその場所を通っていますが、雪崩は起きていません。
偶々と言えばそうなのかもしれませんが、腑に落ちない一番の点といえます。
陰謀論渦巻くディアトロフ峠事件
結局のところ、ソ連は事故の調査で
抗いがたい自然現象に襲われて死亡
雪崩が発生して隊員たちがパニックになり、テントを内から引き裂いて薄着のまま外に。
凍死したり、高いところから落下して全身を強く打って死亡した。
と結論付けられました。
ですが当時の情勢もあり、陰謀論が出てきました。
それが、ソ連による証拠隠滅です。
ソ連が秘密の核実験を行い、その影響を受けた9人の隊員が死亡。
その事故を秘密にしたいソ連が証拠隠滅を図った。
ということがあり、それを裏付けるような証拠も言われています。
前述した不可解な点もありますが、事故の調査報告書にはこう書かれていました。
- 遺族の捜査通報: 2月16日
- 報告書の捜査開始日: 2月6日
つまり、警察は遺族が通報する10日も前から事件のことを調査していたという。
少しガバガバな気もするが、今までのことを踏まえても確かに当時の捜査当局が何かを隠していたといわれてもおかしくはないことです。
まとめ: ディアトロフ峠事件
今回は陰謀論がまことしやかにささやかれているディアトロフ峠事件について紹介させていただきました。
ここまで書いといてなんですが、真相は管理人は普通に「雪にテントが押しつぶされて混乱。そのまま外で凍死、打撲死」だと思います。
説明がつかない部分もありますが、60年以上たてば流石に話が誇張されている部分も多いと思います。
人間が自然に勝てることはないのですから・・・・。
という訳で今回のまとめ
- ディアトロフ峠事件は1959年に発生した遭難事故
- ソ連で9人の山歩き隊が謎の自然死を遂げた
- 雪崩による事故死が有力とされたが不可解な点がある
- 少なくとも何か生物に襲われた説はかなり低い
- 秘密の核実験の被害に遭い、ソ連が隠蔽したという陰謀論も
- 見解は「雪でテントが埋まり、パニックに陥った隊員たちがテントを破って外に出た。そしてそこで凍死した」が説として高い